カルメルの小窓

カルメルの小窓(2014年5月)

教皇パウロ六世の1970927日(日)のイエスの聖テレサ、教会博士宣言の説教


今、イエスの聖テレサに教会博士のタイトルを授けました、というよりも確認しましたというべきであろう。

非常に並外れたこの聖女の名前をこの称号と資格に記載するという事実は、わたしたちの精神に沢山の思考を呼び起こします。

最初に、聖テレサの人物像です。わたしたちの前に謙遜、忍耐、単純さを身に着けた修道女として、並外れた女性として姿をあらわしますし、バイタリティあふれる生命力とダイナミックな聖霊に関して輝きを放っているようにみえます。又、歴史を持った著名な修道会の中で改革者であり創立者として、機知に富んだ作家として、霊的生活の教師として、比類のない観想家であり、疲れを知らない活動的な霊魂の持ち主として、わたしたちは考慮します。彼女の人物像に中にどれほどの人間の偉大さが輝いているでしょうか。

とにかく、聖女について多くのことを話したい気持ちになります。しかし、あなた方はこの場ではイエスの聖テレサの人物と作品について、忍耐をもって聴くことはできないでしょう。多分、列聖省で入念に準備された中から聖女の伝記と歴史的イメージ、短い言葉の中に要約しようとする人には意気消沈とするでしょうが。それはまるで描写しきれないほどあふれ出るようなものにみえます。

それにもかかわらず、彼女について即席にあなた方の関心に合わせることは相応しいことではない。しかし、今教会の歴史の中に起こったこと、神の民の省察と敬虔に委ねていたことが実現しました。それがカルメル会修道女イエスの聖テレサに「教会博士」のタイトルを割り当てたことです。

この行為<「教会博士」のタイトルを割り当てた行為>の意味は大変明白です。聖女の謙遜で堂々とした姿に向かって輝く灯光の中の象徴的イメージを持つことができるような行為です。その行為は彼女の上に注がれる「教会博士」の光のビームであり、もう一つはわたしたちの上に注がれる「教会博士」の光のビームです。

聖テレサの上に輝く「教会博士」のタイトルについて最初に話すならば、わたしの先任者である教皇グレゴリオ十五世によって1622年3月12日に聖人の位にあげられたことから明白です。同じ時にイグナチオ・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、農夫者イシドロというスペインの名だたる人々と、イタリアのフィリペ・ネリと4人の列聖と共に聖女にあげられました。この人々に「際立った教え」という称号の輝きを与え、さらには真実であるが特別な様式でということでした。

アヴィラの聖テレサの教えは真実のカリスマによって輝いていますし、カトリック信仰に一致しています。また霊魂の学識にとっては効力があり、魅力的な事柄を考えさせる英知の賜物によっても輝いています。聖テレサの神秘的な教えは神的インスピレーションを注ぎ込んでいる彼女の作品の中にみることができます。

テレサはどこからこの教えの宝を汲み取っていたのでしょうか。疑いなく、彼女の知性と文化的霊的養成から、その霊的読書から、偉大な神学者と霊的指導者との対話から、彼女の際立った感性から、修道生活から、観想生活から、神の恩恵への応答から汲み取っていました。彼女はこの神の恩恵を祈りの実践のために霊魂の中で豊かに受け取っていました。しかし、これがあの「際立った教え」の唯一の源でしょうか。もしかして、わたしたちは聖テレサに由来する事実、行動、状態に求めるべきではなく、彼女の体験から求めるべきではないでしょうか。すなわち、忍耐、神秘体験、困難さ、御言葉の神秘、聖霊の際立った影響なのではないでしょうか。疑いもなく、神に導かれた霊魂の前にわたしたちは立っているし、後に彼女の独自の文体によって豊かに単純に描写されました。

ここに至って、多くの論点が生じます。神秘的行為の根源はよりデリケートでより複雑な心理現象を考慮させます。そして、多くの要因が干渉してより真剣な慎重さを持って観察する必要が出てきます。同時に人間の霊魂の素晴らしさが驚くべき方法から現れることもあります。特に心の深奥で種々の完全な愛、それは霊的婚姻と呼ばれる愛です。なぜならば人間の愛と出会い一致しようとする神の愛、全力を尽くして上昇しようとする神の愛だからです。これが地上においての霊魂が体験できる神とのより親密で力強い一致、光となり知恵となる一致です。神的知恵と人間的知恵が一つになります。

そして、これらの神秘的な動きから聖テレサの教えがわたしたちに語っています。それが祈りの親密さです。彼女の教えはここを中心としています。彼女は体験を通して、また奉献生活の聖性の中で生きる中で、また超自然的カリスマティックな霊性の中で喜びと苦しみの体験と活動を捧げながら、この親密さを知る功績と特権を得ました。彼女は霊的生活の教師の中の一人として見られるまでこの親密さを開示する造詣を深めました。そのため、修道家族の女性創立者たちの中にあってこのバジリカの彼女の御像に「霊的人々の母」と認められました。

霊的生活に献身した人々にとって聖テレサが母であり教師であることはもうすでに神の民の同意が満たされていると認められていますが、魅力的な単純さと称賛に値する深遠なものを持っている母でもあります。聖人たち、神学者たち、信者たち、学者たち支持はすでに得られています。今、カルメル会の中で、祈る教会の中で、世の中で、彼女の普遍的なメッセージに権威つけられたタイトルを持つことができるようにわたしたちは承認しました。そのメッセージとは、「祈りのメッセージ」です。

今日、これは聖テレサに与えられたより生き生きとしみとおる光であり、わたしたちに注ぐ光です。「祈りのメッセージ」は典礼的祈りの刷新の努力をしているわたしたちにまで届いています。その反面、世の風評によって現代社会の多忙さに譲歩する誘惑がわたしたちに至っています。そして、世の魅力的な宝を獲得するためにわたしたちの霊魂の本当の宝を見失うという誘惑がわたしたちにまで至っています。神と対話するという祈りの習慣を失うだけでなく、神を賛美し嘆願するという感性も失ってきています。精神的分析は脆弱で複雑になったものを解析していきますが、わたしたちが苦しんでいる人間や救済する人間の声を聴くためにではなく、身体的潜在意識の混乱を聴診するため、欲望の渦と絶望的な叫びを聴診するためのものとなっています。このような中でも信仰、希望、愛の対神徳を持った対話をし続けるように「祈りのメッセージ」がわたしたちにまで届いているのです。

今、テレサが知っていた崇高で単純な祈りがわたしたちに届いています。「神がある霊魂を、惜しみなき心をもって念祷に身を委ねるようお傾けになるとき、...自分が神から愛されていることを知りつつ、その神とただ二人だけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません」(『自叙伝』8章4-5)。

これが教会博士である聖テレサのわたしたちへのメッセージの総括です。このメッセージを聴き、実践しましょう。

今、わたしたちは重要な2点について目を向けることにしましょう。
初めに、カトリック教会内でテレサが教会博士というタイトルを受け取った最初の女性であるということです。実に聖パウロの「女性は教会で黙っていなさい」(第一のコリントの手紙14:34)という言葉があるのですが...。これは今日まで女性が身分位階的<ヒエラルキー的>教会の中で割り当てられていないことを意味しています。ことによったら、使徒的見解は女性を侵害しているのでしょうか。

わたしたちが応えるならば、NOです。実際、このことは教会の中の身分位階制的機能のもつ称号について扱っているのではなく、神の民の中にある女性の崇高な使命を軽視するのではないという宣言をしなくてはなりません。

反対に、教会の中で洗礼を受けている女性は信者の共通祭司職に参加していますし、「教会を通して神から受け取った信仰を人々の前で表明しなければなりません」(教会憲章11)。

そしてこの信仰告白の中で、多くの女性がその言葉と著作で多くの人を導くまで高められています。神との親密な対話の中で日々養われる「光」は、それは神秘的な祈りにまで高められますが、サレジオの聖フランシスコの言うように、次のような特別な能力を持っているといえるでしょう。その「光」は人々への善と奉仕のために崇高な生活に導くからです。

そのため第二バチカン公会議は、この地上から神の国の建設を始めるために女性は呼ばれているということを、疑いなく女性が「人間性を損なわないように」、「人間を生命の営みと和解させるように」、「世の平和を助けるように」呼ばれているということを、神の恩恵との協力を持ちながら、認識するように望んでいます。

第二番目に、テレサがスペイン人であることを黙っていることができません。彼女のパーソナリティは、スペイン人の容貌を持っています。精神の強さ、感性の深さ、霊魂の誠実さ、教会への愛です。彼女の姿は、その時代の霊性が花開いたその時代の多くの聖人と教師たちの中に位置づけられます。あなた方は彼女を謙遜の修業者と聴きますが、偉大な霊的生活の教師として鋭い洞察力をもって判断する女性とも知られています。

別の側面としては、当時スペイン内外にて、教会の中で改革の嵐が吹き荒れていました。彼女は真理への愛と主なる神との親密さから、多方面からの無理解と苦悩とに対面しなければなりませんでしたし、一致を破壊するものにどのように平和を与えればよいかを知りませんでした。「わたしはまるで自分が何かができ、また何者かであるかのように主の御前で泣き伏し、このような大きな悪に対して何か処置をとってくれるように、一心にお願いいたしました」(『完徳の道』1:2)。

これは教会と共に感じとったもので、神の国の建設のためにとったカスティリャ人の精神の強さであり、そのリアクションです。彼女は一つの感性、一人のキリスト信者の霊魂を持って彼女を取り巻く世界に深く入り込むことを決心しました。その感性とは、「教会の娘」です。

テレサが生きていた時代から5世紀も経つのに、彼女は霊的使命を保ち続けていますし、普遍性を持っています。それは愛の普遍性であり、この世の愛着から離れて全面的に教会に捧げています。最後の息をひきとる前に彼女が言った言葉、「結局、わたしは教会の娘です」。

この表現の中に、スペイン全土に遣わされたテレサの霊的遺産を理解しようと思います。また、わたしたちにもテレサの言葉を自分に当てはめるように呼ばれていると理解しようと思います。「わたしたちは教会の息子・娘たちです」。

使徒的祝福を皆さんに与えます。
教皇パウロ六世
       (訳:松田浩一神父)

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